September.30.2008「奥出雲多根自然博物館」
September.30.2008「奥出雲多根自然博物館」
今日の歌::木の香り 蕎麦の花咲く 奥出雲
今日は、雲南を推進感謝訪問に歩いた。その中で奥出雲の佐白(さじろ)の信徒さん宅を訪れた。静かな山間の家である。小屋には親子の牛がいた。その家の近くに、どうも「メガネの三木」のとんがり帽子のような建物を発見した。まさか、ほとんど人も歩いていないような田舎に大きなメガネ屋がある筈はないと思った。玄関には恐竜がいた。不思議に思い、地元の信徒さんにお尋ねすると、やはり「メガネの三木」が関係していることが分かった。
この建物は、世界の化石と珍しい鉱物を一堂に展示しているという。宇宙の進化と生命の歴史をテーマにした博物館らしい。食事や宿泊もできるようだ。どうして、このような施設がこんな田舎にあるのかを調べてみた。
佐白の人達は昔から地元の荒神さんを大切にしていた。「三寳荒神社」として、天照大神、豊受大神、須佐之男命が祀られている。当初ちょっとした祠があったそうだが、明治43年夏の台風で吹き飛んでしまった。その後も毎年、お祭りだけは欠かさずしていたが、この荒神さんには昔から、無断で手を掛けて木を切ったり、土手の草を刈ると祟りがあるという言い伝えがあり、人々は、一切手を出すことはなかったという。
その荒れ果てた荒神さんを何とか元のようにしたいと願っていたのが、實治氏の三男である多根良尾であった。良尾は、19歳の時、東洋紡績に集団就職するため、佐白を後にして兵庫県姫路市へ旅立った。その際、この「三寳荒神」に願を掛け、それが少年の心のエネルギーになったという物語は「志學荒神社」の石碑に刻んであるという。そして私財を投じて、「志學荒神社」として再建したらしい。
良尾氏は、もともと父親に似て手先が器用で、仕事の合間に従業員の持ってくる柱時計や目覚まし時計・腕時計、自転車の修理等を請け負っていた。瞬く間にその噂が広がり、仕事以上に忙しくなり、商売としてやっていけると確信した。 そして、1930年、姫路市に 正確堂時計店を創業し、1950年には名称に父實治の実家、「三城」の名前を付け、(株)三城時計店を設立し、1960年には本社を姫路市直養町に移転し、社名を (株)メガネの三城に改め、眼鏡専門店の小売店に移行し現在に至っているとしている。
大神のご加護を一身に受け、世界を翔る「メガネの三城」を造りあげ、ほぼ成功を納めたと自ら実感した彼は、1985年(多根良尾81歳)、解願の篤志をもって復元建立の話をまとめ、上棟祭の斎行に及んだという。しかし、良尾氏は翌年、完成を見ずして亡くなられた。その後は、多根遺族会がこの事業を継承することになり、1986年、錦秋の中、竣工遷座祭を斎行した。
また、そして、佐白の地に昔のにぎわいを復活させたいと願った良尾の思いを汲み、
1987年、(財)奥出雲多根自然博物館 が建設された。この博物館は、多根良尾氏が、「誰もが子供のときに自分の特技を生かした希望と志を持ち、自立心を養い、その実現を誓って欲しい。全国から親子でこの志學荒神社にその志を立てに来てもらいたい」と願い、更に子供の夢を育てる「奥出雲多根自然博物館」の建設計画を立てたという。
また氏は、賑わいのある美しい故郷になってほしいと、道筋に街灯を取り付け、周辺の山々に約700本の桜の植樹、子供の遊び場を備えた佐白公園の整備、そして生家跡には三階建ての「厚生寮」を建設し、「多根教育福祉基金」など青少年の健全育成に情熱を注いできたという。
このようないきさつのようである。神社を参拝できなかったが、地元の方々に愛される神社であるようだ。多根良尾氏がこの地を出発するに、その父親の地元定着が鍵であったと考えられる。父親の實治(さねはる)氏の生い立ちを簡単に記する。
實治氏は一年半ぐらいの放浪の旅をしたようである。どこを経由したかは記録も言い伝えもない。その旅の途中で天然痘の病にかかり、顔はあばたでブツブツであった。「ジャギ(邪鬼?)の三城さん」とも呼ばれた。広島県にある三城家から遠く中国山脈を越え、点々と歩き回ってたどり着いた所が島根県仁多郡奥出雲町三成であった。ご縁があったのが八幡宮の代宮家の陶山(スヤマ)という宮司の家であった。陶山家四代目の英雄氏の話によれば…、
「ある晩、風采のあがらない小柄な男がその代宮家に泊めて欲しいと言ったので、泊めてやることにした。翌日夜があけて立ち去ろうとしたが、余りにも彼のいでたちが汚れていたのを、陶山家初代峯之丞氏の妻トミノさんが思い余って、『もう一晩泊まりなさい。その間にあなたの着物を洗濯してあげましょう。』と引き止めた。」との事である。
その着物というのは白の木綿で、ちょうど全国行脚の修行者の身なりをしていた。彼はトミノさんの申し出に素直に応じた。彼はもう一晩泊めてもらう事になったので、お礼に何か手伝いができないかと思った。そんな時、峯之丞氏がさかんに八幡宮の神札を一枚一枚筆で書いているのを見た。寛治は、鉄をハンマーで叩いて小刀をつくり、硬い木を刻んで神札のスタンプを作った。簡単に神札ができるようになった。それがもとで放浪生活に終止符が打たれ、陶山家で厄介になることになったという。
また、實治氏は「易」をみるのが得意だったので、彼に人生相談するために遠くから人がよくやって来ていた。八幡宮や雨川の若宮神社(現在は大歳神社に合祀)がいつの間にか皆の人気の場となり、みるみる内にお供え物などで神社はうるおった。
他にも、時計商と修理、方位見(家の見取り図を作り良し悪しを判断する)、命名、針灸、製茶、屏風作り、畳の張替え、木版や横笛も作っていた。書の達人、鼓の達人でもあったそうだ。何でも出来る器用さが、村では有名であった。しかしながら、器用すぎて一人一芸の金もうけにならず、決して裕福ではなかったという。
これは徳積みだったのだろう。多根良尾氏の父親である寛治氏の行動は、『生命の実相』に書かれている西田天香さんの行動を思わせる。良尾氏の成功は父親の陰徳が影響しているのではなかろうか。『生命の実相』(頭注版)第5巻209頁~212頁を拝読いただきたい。無我の奉仕が息子に及び、「世界のメガネの三木」を作ったとも考えられる。そして、恐らく産土の神様であろう荒神様を大切にすることが、この事業の強力なバックボーンになっているのではなかろうかとも考えられる。谷口雅春先生が、産土の神様には月に一度は参拝するようにとご教示されているが、「そうだったのか」との思いである。
この地は、松本清張の「砂の器」の舞台となった所で暗いイメージがあるように思えたが、全然そんなことはなく、感謝報恩の物語の大舞台であった。
*H、N
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