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2011年12月

November.10.2011「イスラムの教えとは?⑤」

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November.10.2011「イスラムの教えとは?⑤」
今日の詩::おおみそか 家族で団らん 紅白を

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 「礼拝の基本動作」ですが、①メッカの方向を向いて礼拝の意思表明をします。次に② 「アッラーは偉大なり」と唱えた後、上体を曲げたり、ひざまずいたりしながら礼拝をします。さらに、③「あなたがたの上に平安がありますように」と唱えます。形式はともかくとしまして、「アッラーは偉大なり」と唯一絶対の神を賛美することは素晴らしいことではないでしょうか。先に書かせて頂きましたように、神の定義という意味では第二義、第三義の神があることはいうまでもありません。

 私たちが神想観をする時に、「神はすべてのすべて」という「実相を観ずる歌」を念じることもあります。そのことによって、神様との一体感を得られるようにご教示されています。ただし、神を外に認めるか、自分の内に認めるかは実に重要なことです。内外一如の神を認める時、神様のお力が自分から湧出してくるのでありましょう。

  また、ある講師の話ですが、「自分は神の子である」という確信が未だ出来ていなかった時、毎日毎日、他人の幸福を祈り続けて行きました。それが神の子の生きる道だからです。そして、一年間経った時、「どんな人でも幸福を祈り続ける自分の姿は、神の子そのものではなかろうか」と自分が神の愛の体現者である偉大なる神の子であることに来た付いたそうです。私は、③の祈りの言葉は実に素晴らしいと思いました。

 イスラム教の礼拝所であるモスクには、ミフラーブという、「メッカの方向を示すくぼみ」がつけられているそうです。また、偶像崇拝を嫌いますので、お祈りをするために像や絵を置きません。生長の家の神示には、「我に一定の姿形はない」と示されております。形を示すと、その形に限定されまして、それが神様のお姿であると誤解してしまうことがあります。観世音菩薩様のお姿を仏像にしますと、それが観世音菩薩様であるかのごとく限定してしまいまして、「観自在の原理」が観世音菩薩であることを忘れがちになります。その点、イスラム教は徹底しているようです。逆に、アラベスクのようにイスラム美術に見られる幾何学の模様が美しく、発達しています。その進歩的デザインは、現代にも充分に通用するものではないでしょうか。

 そのような神様の教えは、政治や生活に反映されているようです。以前テレビで見たイスラームの女性は、さまざまな生活上の疑問を、インターネット使って指導者に質問していました。インターネットによって、同じ問題でもそれを解決する方法が、指導者によって違うことも分かるそうです。そして、次第に自分で判断せざるを得ないようになるといいます。

 私はかつて、20年以上前にでしょうか、NHKの番組でイスラームについて放映するためのテキストを読みました。それを解説していた当時のイスラームの専門家は、「礼拝の姿は、神へ自分を投げ出すところの無我の心の象徴であるので、荘厳な気持ちになる」、と語っていました。神想観の姿がそのまま、万物礼拝、秩序整然、中心帰一の姿であるように、姿が心を表現しており、また形が心を作るのでもありましょう。神想観は神様への中心帰一の姿です。それは、総裁先生への中心帰一の信仰姿勢へと続いているように思えるのです。

【平成23年12月31日(土)】今日は、大晦日ですが、ひさしぶりに紅白歌合戦をみます。家族の一人は、県外ですがそれ以外全員です。一家団欒。

中内 英生

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November.09.2011「イスラムの教えとは?④」

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November.09.2011「イスラムの教えとは?④」
今日の詩::残雪や 春の色見る 緑の芽

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 「禁忌」に関しては、豚肉とお酒だそうです。これは、イスラームになる訳ではないのですが、小職は両方合格なのですが、皆様は如何でしょうか。豚は人間と同じほ乳類ですので、同類相食むのは余りよいものではないでしょう。み教えでは、慈悲の思いから、肉体的に負担が増すことから、そして重要なことは環境問題でありましょう。ブタの処分場には、行ったことはないのですが、完全密閉の場所で行われているようです。何ヶ月間か、若い頃に、きめ細かい心を養うためという理由で、物言わぬ動物を世話することを修行の一つとして、ブタの世話をしたことがあるので、ブタに対して愛情が湧くと、食べる気にはなりません。ニワトリは二年間、世話をさせていただいたので、やはりそのような気持ちになります。
 ブタを世話をしていた頃ですが、夜間大学に通っていました。友人が、「お前、何か臭うぞ」というのです。自分ではほとんど分からなかったのですが、ブタの餌の臭いが衣類や肌にしみ込んでいたようです。

 お酒ですが、好きな人にとっては何とも複雑な思いではないでしょうか。私は、かつて毎日ジョギングをしている仕事をリタイアしたようなスポーツ系の男性と会話をしたことがあります。彼は公園で柔軟体操をしていました。「元気があって良いですね!」と私は声をかけました。すると、その男性が、「こうして毎日ジョギングをした後に飲む冷えたビールがのどごしを通る時のうまさがたまらないのですよ。そのために毎日ジョギングをしています」、と言っていました。私はその言葉を聞いた時、「この男性は、のど元の数㌢の快感のために毎日人生の一部を注いでいるのだろうか」と少し寂しい思いになりました。人生の貴重な時間をそんなことにつぎ込んでよいのだろうか、と思ったことでした。しかし、その頃は私も、少しは自宅でたしなんでおりましたので、他人のことは言えませんね。

 もう一人、息子さんが大きな病院の院長兼オーナーである父親と会話したことがあります。この男性は、やはり高級洋酒が大好きでした。彼は言います。「歳を取って老人となると、次第に洋酒が飲めなくなると思うと、残念です」と。私は、「お酒をおのみになるのはよいとして、もっと他に喜びを持っては如何でしょうか?今日一日、どれだけ他人に対して深切をしたとか、自分の肉体の五官の喜びよりも、もっと魂が喜ぶ道を歩んでみませんか」と話したものです。

 「お酒は飲んでも良いが、飲まれてはいけない」とも言われています。日本酒は御神酒とも言われていますので、本来人を害するものではない筈です。その使用法が大切なのでありましょう。飲み過ぎると脳の一部が麻痺するようです。また、個人差もあると思いますが一日二合ずつ日本酒を飲んでいると、脳萎縮が十年早く始まる、とも言われています。まあ、適当にどうぞ、というところでしょう。私自身は、土佐人のくせにまったく飲みません。それは、このブログのお陰です。総裁先生がブログへの道を開いて下さいました。ブログを書く度に、総裁先生に心から感謝申し上げております。

 私の友人で、お酒飲みを指導する名人X講師の話をします。あるご婦人は、ご主人がとび職で、一日一升のお酒を飲むことに悩んで練成に来ました。X講師は、「お酒は奥様がみずから注いで上げて下さい。そして、一日の始めと終わりに、丁寧にお辞儀をして、”今日もどうぞ宜しくお願いします”。”今日も一日有り難うございました。”と挨拶をして下さい」と指導しました。すると、一ヶ月経った時、ご主人が練成会に来たのです。それは奥様が、練成会から帰ってきてから、ご主人に異変が起こったからです。ある夜に、お酒を飲んでいますと、ラベルはいつもの大好きなメーカーのお酒なのに、味が実に悪いのです。奥様に聞いても、同じ酒だというのです。ご主人は考えました。「さては、酒屋がが、うまく栓を開けて、中味を安い酒に取り替えたな!」と。そこでご主人は、一升瓶をもって、酒屋へどなりこみました。酒屋さんは言います。「そんなことを私が出来るわけがないでしょう。栓をするのは全部機械がするので、決してうまく分からないように入れ替えることはできる筈はないではないですか!」と。それを聞いて、彼は納得せざるを得ませんでした。その時から、ピッタリとお酒がまずくなって飲めなくなったそうです。「どうしてお酒が飲めなくなったですか?」というご主人からのご質問を私が受けたので覚えております。夫婦大調和の結果でした。

 中内 英生

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November.08.2011「イスラムの教えとは?③」

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November.08.2011「イスラムの教えとは?③」
今日の詩::柿の実や 食べることより 見るもよし

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 「五行」という、義務としての信仰行為があります。生長の家では魂を解放するのが宗教であるというのでほとんど義務、すなわち「ねばならない」ということは定められていないようです。でも、「毎日一回必ず神想観を実修して心を光明化すべし」という信徒行持要目があります。また、記憶によるので、申し訳ないですが、一ヶ月に一回は産土の神様にお詣りするようにとも書かれています。しかし、一日といいましても、現代ではグローバル化が進んでおりまして、日付変更線の関係もあり、すこし曖昧になる可能性もあるのではないでしょうか。また、産土の神様は外国にはおられるかどうかわかりませんので、日本の場合ということになりましょうか。

 さて、①「信仰告白」です。「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはその使徒」という文章です。唯一絶対神であるアッラーの他に神様はいない。これは神様のお名前が時代と国よって違っていますので、唯一絶対神という意味におきましては共通ではないでしょうか。また、ムハンマドの伝記を読むと素晴らしい求道者であったことがうかがえます。

 次は、「礼拝」です。一日に五回、祈りを捧げることです。島根の信徒の皆様、朝夕は神想観をしておられると思いますが、一日五回の随時随所の神想観は、なかなか忙しくてできにくいのではないでしょうか。しかし、現在は、神に祈る強烈な手法であるところの『日時計日記』がこれに替わることが出来ると思うのです。常に携帯し、神に祈り、感謝し、目は瞑らなくても、文字を通して心で神に祈る。これならば充分に一日、五回の祈りに匹敵できるのではないでしょうか。

 「喜捨」が三番目です。自分の財産を貧しい人に施す、というものです。私たちも、さまざまな形で、本部の方針に従いまして世界の被災地に対して浄財をささげさせていただいております。物施としての宗教行であり、大きな徳積みであろうと思います。また、自然界という被災地に対しましてもグリーン募金として行わせていただいております。さらに、物施だけではなく、み教えをお伝えするために聖使命会に入会して、世界中の人々にみ教えが伝わるように献資の功徳を積ませていただいております。
 お釈迦さんの弟子にカショウという人がおられたそうです。お釈迦さん曰く、「貧しいのは善業が尽きているからです。従って善業を積ませてあげるために、貧しい人々の所に行って、托鉢し、施しの徳積みをさせてあげなさい」と。それでカショウは、飢饉のあった貧しい村を選んで托鉢をしていました。すると、ユイマキツという聖者が、「人生はあざなえる縄のごときものです。現象的に豊かであるように見えても、すでに徳が切れている家もあります。貧しいように見えても、愛を出し合って、思いやりの心を起こし、すでに徳が積まれようとしている家もあります。家貧しくして孝子あり、です。だから、現象的に、判断して托鉢をしてはいけません」と教えるのでした。

 次は、「断食」です。一年に一ヶ月、日中の飲食を絶つ、というものです。朝、しっかりと食べておけば、夕方までは保つでしょう。水分補給については、ここには書かれておらず、定かではありません。
 断食は、生長の家では、特に行うことはありません。感謝していただくのです。ただし、その前提としまして、「物質なし」がありますので、常に断食をしているということもできましょう。それならば、物質の食事をしていないかといいますと、形では物質の食事をしているようでも、実は、私たちを生かさずにはおかない神様の愛、衆生のご恩をいただいているので、決して物質をいただいているのではないとも言えるのです。

 最後は、「巡礼」です。一生に一度、メッカに巡礼する、というものです。ここで「聖地」という言葉が頭に浮かんでくると思いますが、私たちにとりましては、総本山や、宇治別格本山が「聖地」とでも呼べる存在でありましょう。そのことに関しまして、総裁先生が、「聖地とは実相世界である」と御教示下さいました。そして、私たちが今まで聖地と考えていた場所は、「聖地のようなもの」でありまして、決して聖地そのものではない、ということです。この考え方が、人類に徹底しますならば、聖地をめぐっての争いは消えると考えられるのです。私自身は、この御教示は、世界に平和を招来するためには実に、実に大きい御教示であると受け止めさせていただきました。

中内 英生

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November.07.2011「イスラムの教えとは?②」

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November.07.2011「イスラムの教えとは?②」
今日の詩::ヒオウギの 貝の色見て 驚きぬ ムラサキ色や 緋色のおうぎ

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 六信とは、その存在を信ずべき事柄です。まず、唯一神の「アッラー」を信じること。生長の家では、三義の神として、第一義が創造神、第二義が応化神、第三義の神が個別霊となっています。このことから考えると、第一義の神様が共通しているというべきでしょうか。
 天使を信ずること。すなわちガブリエルとかミカエル大天使です。この神様は第二義の応化の神様というべきでしょう。ミカエル大天使という意味で、谷口雅春大聖師が『新講甘露の法雨解釈』の中で、この神様は、身を変える、すなわち三十三身に身を変える観世音菩薩様のお働きであると書かれております。

 経典を信ずること。コーランや聖書などですので、文書を基礎とした教え、他の宗教でも重んじるという心の広さが表れているように思えます。
 預言者であるムハンマドやイエスを信じること。イスラームはセム的一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラームの預言者を信じることになっておりまして、キリスト教をも包含するという広さがあるように思えます。

 ここで予言と預言の違いを考えますと、将来のことを予言することと、神様のお言葉を預かるという意味の預言とは違うようです。「人間は神の子である」という真理をお伝えいただくことは、預言の部類でありましょう。「将来このようになる」などと手相や人相学を元にしていうことは予言の部類ではないでしょうか。

 五番目は、「来世」である天国と地獄を信じることとありますが、現象界としての霊界に於いて、「霊姿に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり」ということがありますが、すべて三界唯心の原理のよって出現してくると教えられておりまして、仮の姿としては存在しますが、実在としては「地獄は本来ない」というのがみ教えです。地獄を天国に変えるには、三業を変える、すなわち、思念と発声音と表情を変える、ということで実在の天国が、現象化するとおしえられています。
 私たちが日時計日記をつけること、そのこと自体が、決して単なる手段としての日時計日記の記載ではなく、天国が現象化している光景であると私には思えます。

 六つ目は、「天命」です。神によって定められた運命を信じるということです。み教えにおきましては、根本的には、「神をこの世に顕現するのが人生の目的である」と教えられているように、第一義的にはこれが基本でありましょう。さらに現象界におきましては、心の持ちようによりまして、あらかじめ決まった寿命なども、変化すると教えられております。「神様からのご使命」という意味で考えますと、神の愛を他に与えることこそ、ご使命ではないでしょうか。そこには大きな与える喜びが満ちあふれております。

中内 英生

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November.06.2011「イスラムの教えとは?①」

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November.06.2011「イスラムの教えとは?①」
今日の詩::仏壇に 百合の香りが 漂いて 電灯けせども 部屋いっぱいに

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 イスラームについては、生長の家本部練成道場での生長の家教修会で学習をさせていただきた記憶があります。総裁先生の御著書『衝撃から理解へ―イスラームとの接点をさぐる』は信徒必読の書です。生長の家から見たイスラームのとらえ方、観方が御教示されております。平成23年12月24日(土)に、「ののちゃんの自由研究」というのがありましたので、記憶をたどりながら頭に入れていきたいと思います。仏教やキリスト教などと違い、島根の地でもほとんどおめにかかることがないようです。仏教は、日本が発祥地ではなく、インドです。しかし、三千年の歴史を通して、四無量心が日本に生きて実践されるなど、日本に定着致しております。

 さて、イスラム教の歴史ですが…。
西暦570年頃に預言者ムハンマドは、メッカに生まれています。
610年頃、洞窟で天使ガブリエルを通じ、神の言葉を聞いています。
622年に、迫害を受けてメッカからメデイナに移り住んでいます。
630年に、メッカを征服しています。
632年、ムハンマドが死去し、アブー・バクルが後継者となり、正統カリフ時代に入ります。
611年、第4代カリフ・アリーが暗殺されて、シーア派が誕生します。そして、スンニ派と分かれます。ウマイヤ朝が成立しています。
711年、イスラム軍はイベリア半島に侵攻します。それから1472年まで、グラナダ陥落で半島のイスラム時代が終わりを告げます。
750年、アッバース朝が成立します。1922年までです。
1299年、オスマン朝が成立します。1922年までです。
1979年、イランでイスラム革命が起きています。

 ここには、キリスト教とのせめぎ合い、そして産業革命以降、ヨーロッパ勢力のイスラム諸国への侵攻によって、イスラームの人々の意識が急激に変化していったことを記憶しておいた方が良いでしょう。それを知らないと、世界に起こっているさまざまな対キリスト教または資本主義に対する社会現象の深層を流れる意識が理解できないからです。
 現在、イスラームは、約15億人と言われています。世界の五人に一人がイスラームです。この宗教を知らずして、現代ではおそらく「万教帰一のみ教え」は語れないでしょう。
  教典の読み方ですが、「コーラン」と私たちは読んでいましたが、「クアラーン」が正しいようです。

 中内 英生 

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November.05.2011「ヒッグス粒子・万物の重さの起源」

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November.05.2011「ヒッグス粒子・万物の重さの起源」
今日の詩::雷鳴を 聞きて安らぐ 炬燵かな

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 体重が増える度に、「重さはなぜあるのだろうか?」などと考えたこともありませんでしたが、日経新聞(2011/12/14)にそれが出ていました。ビッグニュースなので、各新聞で報道されています。
  ヒッグス粒子とは何でしょうか?1960年代に、英国人科学者のピーター・ヒッグス博士によりまして、存在が理論的に提唱されたそうです。物質や宇宙の成り立ちを説明する「素粒子の標準理論」を構成する素粒子の中で、唯一存在が実証されておりません。
 
 ヒッグス粒子は、宇宙のどこにでも存在しておりまして、万物に質量を与えるという、その特別な役割から、欧米では「神の粒子」と呼ぶこともあるそうです。存在が実験で確認されますと、標準理論が事実上、完成するとしております。
 
 私はこの発見の基礎となる計器が各所に使用されているようですが、同じ機械は小さな光を発見するカミオカンデに取り付けられておりまして、浜松ホトニクスという日本製であることが素晴らしいと思います。
 この会社ですが、最初にテレビで信号を送信したそうです。会社のホームページを見てみますと…。

   この会社の旧社名は「浜松テレビ」でした。社名の由来は、テレビの生みの親・高柳健次郎氏の精神と技術を受け継ぎまして、光技術と産業を結び付けることを設立理念と事業目的としたために、高柳氏にちなんだ社名を考えることになり、当時ではすでに、「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったために、「浜松テレビ」と名付けられたようです。なお、この社名は、テレビ局と間違えて新人タレントが挨拶に来たり、家庭用テレビの修理を依頼されるなどの後日談を生むことになったそうです。

 「すごいなあ」と思う記事がありました。この会社のテレビジョンの科学分野、産業分野への応用は、三重大学の川本信之教授から依頼されました、魚礁観察用水中カメラの制作から始まりました。このカメラの制作は、翌春の入社を予定していた横沢文男(元監査役)がアルバイトで行ったそうです。

 十分な部品や測定機器も揃わない中、4カ月に渡る孤軍奮闘の末、当社の歴史上初のテレビカメラが、一人のアルバイトの手によって完成したというのです。日本の技術。すごいと思います。この会社の技術が、今日の本題である実験機に使用されているというのです。
http://hamamatsu.com/hamamatsu/history/index.html

さて、本題に帰ります。
①ビッグバン直後の宇宙…ヒッグス粒子が生まれる前です。素粒子は高速で進み、質量を持っていません。
②その後のヒッグス粒子に満ちた現在までの宇宙は?
 素粒子は減速します。ヒッグス粒子に邪魔をされて高速よりも遅くなります。従って、質量を持つとのことです。

 これはCDなどで説明されないと、分かりづらいようですが、すごい発見であるようです。

 中内 英生

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November.04.2011「電動自転車」

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November.04.2011「電動自転車」
今日の詩::愛犬の 散歩の予定 雪で止む

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 ハイブリッド自転車とでもいうような自転車がでています。「ここまで必要だろうか?」という思いもありますが、「自分で電気を作って走るという仕組みはすごい!」と思います。
 この自転車は、パ○○○○○からの発売です。今までは、充電スタンドを使って充電し、自宅の電気を使用するのですが、この自転車は、プリウスに似ているようです。坂道の時に、充電するシステムです。

 大容量リチウムイオンバッテリーの16AHでは、パワーモードで約68km走ります。1回5時間の充電です。オートマチックモードでは約90kmの走行です。平地充電モードでは、約160kmの走行です。お値段も決して安価ではないようですが、考え方そのものに感動しました。それは、出雲で使う電気は、恐らく化石燃料を使う三隅火力発電所で作る電気の筈です。島根原発もありますが、大出力の電力は、往々にして都市部に送られていることが多いです。よく調べた訳ではありませんので、間違っていましたら教えて下さい。

 この自転車は前輪で発電するようになっています。もちろん、大容量のリチウムイオンバッテリーがありますので、走行に心配はいらないのですが、自転車みずからが発電するということが何ともエコではないでしょうか。一歩進んだ考え方です。
 私自身は、MTBを時々乗っておりまして、段差があっても前輪にバネがありまして、ショックを受けないような仕組みになっています。

 自動車だけの時代がかつてありました。しかし、脚を鍛える必要性を感じることがありまして、自転車を乗るようになりました。自転車では歩く時以外に使う筋肉を使用するようです。三十分ほど乗っておりますと、どんなに寒い日でありましても、身体が熱くなってまいります。運動ができているのだと思います。
 島根の場合には、サイクリングロードはどこかにあるはずですが、車道の端に白い線がありまして、その左が自転車用の筈です。しかし、そこを自転車で走るのには命を賭けなければなりませんので、『甘露の法雨』をたくさん身にまとってからでないと、走る勇気が出にくいと思います。

 信徒さんのご自宅で電動自転車を見かけますと、「これは伝道自転車かな?」とふと思うことがあります。いずれにしましても、自分が使う電気は少しでも自分で作るという発想を持ちたいと思います。その道具を作るためには、もちろん二酸化炭素を発生するでしょう。しかし、使い始めると、電気そのものが発生します。こちらの方が自然のためにはよいのではないでしょうか。そして一層倫理的信仰生活でありましょう。

 現在、自転車は危険視されていることもあるようです。大勢の人が歩いているところを縫うように高速で走る。また、ブレーキをはずす改造をする。ぶつかっても謝らずに去る。無灯火での走行など、いろいろあるようでして、ぶつけられた人がお怪我をなさることもあるようです。出雲は、無灯火の自転車も時々であうことがありまして、夜間に歩いておりまして、背後から無音かつ高速で傍をすり抜けて行かれると、びっくりします。お互いにマナーを磨き会いたいと思いました。

 中内 英生
  

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November.03.2011「大和島根新年の挨拶」

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November.03.2011「大和島根新年の挨拶」
今日の詩::寒気団 雷神の声 ピカピカと

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 昨日の文章に多少、修正を加えて新年のご挨拶とさせていただきました。どうぞ、よろしくお願い致します。
 【信仰の原点に帰り、総裁先生に中心帰一して、喜びの講習会を推進しましょう】

 新年、明けましてお目出度うございます。
今年は、六月二十四日に講習会が行われます。皆様、明るく楽しく推進を致しましょう。
今年は、み教えの原点に帰る一年にしたいと思います。
  新たな出発点には、信仰の原点に帰る以外にないというのが私自身の結論です。原点というと、考えられるのは、中心帰一の信仰姿勢であり、実相直視と両親への感謝です。そして、三正行です。

 実相直視は、唯神実相のみ教えより発します。聖書に書かれている「神、光あれと言い給いければ光ありき」というのが、神様の初発の心であり、初心でありましょう。光しかなかった世界であります。それ故に、総裁先生の御著書『日時計主義とは何か?』に御教示されておりますように、日時計主義こそ極めて基本的かつ根本的な実践すべきみ教えでありましょう。日々、楽しく、日時計日記を記載し、神様の御光を見出しつつ、神性表現を行いたいものです。

 二つ目は、両親への感謝です。「神に感謝しても父母に感謝せぬ者は神の心にかなわぬ」
と「大調和の神示」にありますように、どんなにがんばっても、父母に感謝していない人は、人生に於いて本当の喜びが湧いてくることはありません。生長の家の運動とは?、国際平和信仰運動とは?、本当の意味に於ける幸福な人を増やし、幸福な御家庭を増やす運動ですので、基本的な単位である個人が幸福になりませんと、世界に平和を持ち来すことは不可能でありましょう。
 神の愛の地上的顕現である父母から、「自分は愛されていた」と実感し、その愛に感謝する以外に、報恩感謝の偉大なる伝道の力は湧いてくることはありません。心底、父母に感謝することができた時、強烈な報恩感謝の念と共に、み教えを伝えずにはおかない、伝えさせていただきたいという熱烈な想いが湧いて参ります。「救われた人は十人の人にその救いを伝えよ」という言葉がありますように、救われた喜びを講習会推進に於いて表現したくなるのです。

 父親に感謝する時、秩序を重んずる心が養われます。父親とは社会的秩序の象徴でもあるからです。父親の愛を知らない場合は、社会に於いて、御家庭に於いて、職場の仕事に於いて中心がどこにあるかの見当が付きかねます。秩序性が理解しにくくなるようです。従って、どうしても自分考えで、上の人の考えを聞かずに自分で判断して行動しがちです。
 今考えると私は、父親に感謝ができた32歳頃まで、能力には自信がありましたが、少し秩序を重んじない傾向にあったように思います。それが父親に感謝するようになると、秩序を重んじることができるようになりました。「秩序を重んじる」とは、実践生活に於いて父親の愛に応えることだ、と心の底から思えるようになったからです。
 同様にして私自身と致しましては、「総裁先生への中心帰一の信仰姿勢」は父親への感謝から発するのではなかろうかと考えております。

 感謝は実に絶大な力であり、単に受け身のものではなく、積極的な創造力であるのです。特に、両親への感謝が確立された時、その人は本当の幸福者となり、夫婦が調和し、周囲と調和し、会社に於きましても、組織に於きましても大調和が実現することになります。幸福感とは、実にこの「大調和の感じ」でありまして、それはまず、両親の姿の中に神の愛を発見して、その愛に感謝する以外にないと考えられます。それが充分に理解し、感謝できるまで、その人の魂はご自分の人生を、父母の愛を求めるが如く、さまよい歩き続けるのではないでしょうか?。当然のことながら、「絶大な父母への感謝」は絶大な伝道の力、菩薩力となって発揮されるのは言うまでもありません。

 「汝等の兄弟のうち、もっとも大なる者は汝等の父母である」と、神示にありますように、このお言葉を体得し得ない限り、本当の幸福な生活も、楽しい運動も、自主的にアイデアが湧出する運動も、ご家族が喜んで参加してくれる運動もなく、子供たちに信仰が伝わることもあり得ないと思うのです。

 従いまして私は最近、、『日時計日記』を毎日記載して、光だけを観る訓練を行うことと、両親への徹底感謝をお勧めしております。光だけを観ることを御実践しておられますと、当然のことながら、母親が月を指さす指ばかりを見ていた子供が、遂には目線が伸びて月を発見するように、真象を讃嘆する境涯から一歩前に進み、大いなる宇宙大生命の光だけの世界を見出すに至るのでありましょう。

  ある白鳩さんで、毎日のように感謝しながら喜びの中で活動を続けておられる方がおられます。そして充分に運動の成果も上げておられるのです。ご夫婦は仲が良くて、子供たちにも美事に生長の家の信仰が伝わっているのです。
 明るく、楽しく、両親に感謝し、光だけを見つめながら運動していく時、成果は自ずから後から付いてくると思います。「信仰生活の基本に帰る」ことこそ、時間はかかることがありましても、実質的に、徐々に運動の成果があがることになるのではないかと確信する今日この頃であります。目標、目的への途中経過に真理と愛を表現することは、「面倒くさい」かも知れませんが、「面倒くさいが世界を救う」のは真実でありまして、信仰者の運動とはそのようなものではないでしょうか。

 『私の行くところに道が開かれる。私は道である。私の行くところに太陽が照りかがやく。私は太陽である。私の行くところに花びらが撒かれる。私は花びらである。』
 このようなあなたが、今年もさらに進歩し向上し、健康と幸福が増進し、その喜びを周囲の人々伝える偉大なる一年となることを念願しております。その結果が、輝かしい講習会の成果となるのであります。

中内 英生

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November.02.2011「運動を自主的に楽しく行なう」

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November.02.2011「運動を自主的に楽しく行なう」
今日の詩::木枯らしや 海鳴り思う ゴウゴウと 

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 私は今月、このテーマで組織の会合に於いて二度、講話をさせていただきました。やはり、原点に帰る以外にないというのが私自身の結論です。原点というと、考えられるのは、実相直視と両親への感謝です。

 実相直視は、唯神実相のみ教えより発します。「神、光あれと言い給いければ光ありき」というのが、神様の初発の心であり、初心でありましょう。光しかなかった世界であります。それ故に、総裁先生の御著書『日時計主義とは何か?』に御教示されているように、日時計主義こそ極めて基本的かつ根本的な実践すべきみ教えでありましょう。日々、楽しく、日時計日記を記載し、神性表現を行いたいものです。

 二つ目は、両親への感謝です。「神に感謝しても父母に感謝せぬ者は神の心にかなわぬ」
と神示にありますように、どんなにがんばっても、父母に感謝していない人は、本当の喜びが湧いてくることはありません。生長の家の運動とは?、国際平和信仰運動とは?、本当の意味に於ける幸福な人を増やし、幸福な御家庭を増やす運動ですので、基本的な単位である個人が幸福になりませんと、世界に平和を持ち来すことは不可能でありましょう。
 神の地上的顕現である父母から、「自分は愛されていた」との実感と感謝を通過する以外に、真の報恩感謝の絶大な力は出て参りません。

 父親に感謝する時、秩序を重んずる心が養われます。父親とは社会的秩序の象徴でもあるからです。父親の愛を知らない場合は、社会に於いて、御家庭に於いて、職場の仕事に於いて中心がどこにあるかの見当が付きかねます。秩序性が理解しにくくなるようです。従って、どうしても自分考えで、上の人の考えを聞かずに自分で判断して行動しがちです。
 今考えると私は、父親に感謝ができた32歳頃まで、能力には自信がありましたが、どうしても秩序を無視する傾向にあったようです。それが父親に感謝するようになると、秩序を重んじることができるようになりました。常に秩序を重んずることは、実践生活に於いて父親の愛に応えることだ、と感じるようになったからです。
 同様にして私自身は、総裁先生への中心帰一の信仰姿勢は父親への感謝から発すると考えております。

 感謝は実に絶大な力であり、単に受け身のものではなく、積極的な創造力であるのです。特に、両親への感謝が確立された時、その人は本当の幸福となり、夫婦が調和し、周囲と調和し、会社に於きましても、組織に於きましても大調和が実現することになります。幸福感とは、実にこの「調和の感じ」でありまして、それはまず、両親の姿の中に神の愛を発見して、その愛に感謝する以外にないと考えられます。それが充分に理解し、感謝できるまで、その人の魂は人生を、父母の愛を求めてさまよい歩き続ける意外にないと考えられます。当然のことながら、「絶大な力」は絶大な伝道の力、菩薩力となって発揮されるのは言うまでもありません。

 「汝等の兄弟のうち、もっとも大なる者は汝等の父母である」と、神示にありますように、このお言葉をクリアーし得ない限り、本当の幸福な生活も、楽しい運動も、自主的にアイデアが湧出する運動も、ご家族が喜んで参加してくれる運動もなく、子供たちに信仰が伝わることもあり得ないと思うのです。

 従いまして私は最近、、『日時計日記』を毎日記載して、光だけを観る訓練を行うことと、両親への徹底感謝をお勧めしております。光だけを観ることを御実践しておられますと、当然のことながら、母親が月を指さす指ばかりを見ていた子供が、遂には目線が伸びて月を発見するように、大いなる宇宙大生命の光だけの世界を見出すに至るのでありましょう。

  ある白鳩さんで、毎日のように感謝しながら喜びの中で活動を続けておられる方がおられます。そして充分に運動の成果も上げておられるのです。ご夫婦は仲が良くて、子供たちにも美事に生長の家の信仰が伝わっているのを拝見し、我が家もそのようになりたいといつも思っております。
 明るく、楽しく、両親に感謝し、光だけを見つめながら運動していく時、成果は自ずから後から付いてくると思います。「信仰生活の基本に帰る」ことこそ、時間はかかることがあっても、実質的に運動の成果があがることになるのではないかと感じる今日この頃であります。途中経過に真理と愛を表現することは、「面倒くさい」かも知れませんが、「面倒くさいが世界を救う」のは真実でありまして、信仰者の運動とはそのようなものではないでしょうか。

中内 英生

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November.01.2011「”大震災の意味を問う(2)”に学ぶ」

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November.01.2011「”大震災の意味を問う(2)”に学ぶ」
今日の詩::寒風に 枯れしシャボテン 芽を出だす

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  機関誌『生長の家』(2011/10)の4頁からの第一節を学びましょう。
 「震災の被災者は高級霊なのか」という問いに対してのご指導である。高級か低級かについては、本来完全円満なる神の子の実相が霊界に於いてどれだけ表現され、開発されつつあるかにという、現象身としての「神性開発の程度」の問題であると理解すべきである、と御教示されている。ここで「神性開発の程度」とは何を意味するのでありましょうか?

 『生命の實相』(頭註版第9巻霊界篇上)の120頁には霊界人ヴェッテリニの答えが書かれている。
 それは直覚的認識すなわち霊魂による霊魂の認識が先ず挙げられている。私たちが一般に使う「第六感」とでもいうものであろうか。しかし、それには先入観念が入らないことが必要であり、こちら側に、様々な経験と魂の高さが要求されると思う。 

 外から見える徴証も「たくさんある」としている。第一は、「雅量」である。「人間霊魂の深い認識より出発した他に対する赦し」であり、「聡明なる雅量」、「「寛大と峻厳との必要を知るところの雅量」であるという。
 いわゆる「やさしい人」「何でも言いやすい人」というのは、峻厳さが欠如しているのではないかと思われる場合もある。そういう人の場合、自分ではやさしいつもりで、かなり頑固な性格であると見える場合があることもある。
 み教えは、「寛大なる峻厳」こそ、向上した霊魂の特徴としている。従って、単なる「やさしい」、というのは霊魂としてはさらなる向上を要求される位置にあるとみるべきでありましょう。

 第二は、「卑しき者、世に出でざる者、弱き者に対する愛」、すなわち、社会的成功、名誉、地位等に対する無関心によってともなわるる愛」であるとしている。卑しき者とは、卑しいと思われるような仕事に従事している者という意味であろうか。「神の子が行う仕事に貴賤はない」との認識が、私たちにはある。
 谷口雅春大聖師は決して、自分が有名になろうと思われて立教されたのではなかった。「野の百合の生きる道」の詩が示しておられるように、「認められなくても唯ひたすら他のために生きる野の百合」の生きる道を目指しておられたのである。
 この生き方をこそ、私たち島根の信徒は学び、生きるべきではなかろうか、と思う。

 第三は、「哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知ろうとする熱望、その神秘に貫き入ろうとする努力」。これらは霊魂の進化そのものであるとしている。霊界の神秘を知ろうとする熱望は、「霊媒師に教えを受ける」という意味ではあるまい。谷口雅春大聖師は霊媒師に教えを受ける危険性を各所でお説きになっておられる。
 従って、霊界の神秘とは、『生命の實相』霊界篇(上・下)などを読むことが必要であると考えられる。それは、迷える霊魂も実在するという見地に立っての考え方と、「迷える霊魂はない」との見地に立って実相神の子の完全なるご先祖のみ実在する、という実相直視の先祖供養とは雲泥の差であると考えられるからである。

 現象界としての霊界はあると知ること。そして感謝報恩の念をもってご先祖を供養すること、これは私たちが日々、行うべき運命好転の宗教行の一つでありましょう。

中内 英生

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October.31.2011「すべての悪現象は、実相の忘却より」

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October.31.2011「すべての悪現象は、実相の忘却より」
今日の詩::灰色の 空見つむれば みぞれ降る 

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  『如意自在の生活365章』124頁には、「一切の悪しき問題は、”実相”の忘却より生ず」とあります。このことは実に有り難いことです。闇よりも光が強い。これほど素晴らしい救いはありません。何億年前からの洞窟の闇も一瞬のライトの光で消えてしまいます。それは闇とは無の別名であり、同様にして「罪」も「病」も「死」も無の別名です。感謝と共に病が消滅することはご存じの通りです。
 人類無罪宣言と共に罪が消滅することは、罪は心の中だけにあるだけで本来何処にもないからです。

 故O先輩からお聴きしたことですが、ある時、谷口雅春大聖師の随行をして汽車に乗ったのです。先輩は、雅春先生にお聴き致しました。
『業はあるのでしょうか?』と。
『生命の實相』を何度も拝読している先輩は、やはり雅春先生からお言葉をいただきたかったのでした。すると雅春先生は言われるのです。
『業はあるね』と。
先輩は考え込みました。
『これは大変なことになった。『生命の實相』に書かれていることとは違うお言葉のように思える』と。しかし、その後、雅春先生の御教示は続けられました。
『それは、心の中だけにあるね』と。

 心の中だけにあるとは、心で掴んでいるだけであって、本来実体がない煙のようなものであるというのです。一瞬、風船の中に入れてみるとあるように見えますが、それも現れては消えます。また雲のように、雨となって現れては消滅し、写真や動画に撮って保存しておくと、いつまでもあるように見えます。
 それを消し去るには、強烈な太陽光線で蒸発させるように、人間神の子の真理の自覚が鍵であるとお教えいただいております。自覚の光こそ、何よりも強い消去力をもっています。

 またある時、故T元本部講師が、「迷い本来無し」を練成会員に説いていました。一所懸命に講話している時、一人の男性が質問しました。講話が中断しました。
『迷いはどこから来たのですか?』
あまりの突然の質問に、T講師の頭はパニック状態になりました。「どこから来たのだろうか」と考えれば考えるほど分からなくなりました。そこでT講師は、練成会員に言います。
『すみません。分かりません。谷口雅春先生におききしてきます』
T講師は、雅春先生にお聞き致しました。
『先生、迷いはどこから来たのでしょうか?今日、練成会員から質問を受けて、分からなくなりました』
雅春先生は御教示されました。
『T君。これは仏教上の重大な問題になっているんだよ』
T講師は、「自分は良い質問をした」と全身耳にして次のお言葉を待っていました。
『仏教では大問題なのだが、生長の家では簡単なんだよ。迷いは無いから、どこからも来ないんだよ』と。

 そうです。迷いが本来無いのならば、迷いの産物なる罪と病と死は消えることになります。死はあるように見えても人間は死なないのです。死んでいるように見える。キリストは、「見ゆ、という罪は残れり」と、肉眼で見ることで物質や肉体が実在するように錯覚することを注意しています。
 ここ出雲でも、太陽は日本海に沈んでいくように見える。本当は、太陽に対して地球が逆転しているので沈んでいるように見えるに過ぎません。しかし、太陽は確実に翌日、頭上に照りかがやくのです。決して消えない太陽。そして、人間は肉体ではないので、決して病まず老いず、死なないのが自分自身であるのです。
 総裁先生が東日本大震災でお亡くなりにたった人々に対して、「決して亡くなってはおられない。厳然として霊界で生きておられるのである」と御教示されました。このお言葉で、私自身の心は解放されました。

 人間の存在は、「物質の奥に肉体の奥に霊妙極まりなく完全なる存在あり。これこそ神に創造られたるままの完全なる汝そのもの」であるとお教えいただいております。その本当の自分を、日々神想観によって把握し、自覚を深めて参りましょう。

中内 英生

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October.30.2011「人類意識の暗示」

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October.30.2011「人類意識の暗示」
今日の詩::コチコチと 寒さ伝える 時計音

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 『如意自在の生活365章』123頁~124頁に、「人類意識の暗示にかからないように」という谷口雅春大聖師の御文章があります。暗示とは強烈なものでして、先入観念ともなります。かつてテレビで見たのですが、催眠術の指導者が言葉の力で、「これはリンゴです」というと、普通食べられないものでも、催眠術をかけられた学生は、美味しそうに食べていました。極めつきの術は筋肉力でした。椅子と椅子とに頭と足先をつけてその上に男の学生が三人乗りました。指導者が「あなたの身体は鋼鉄のように強い!」と暗示すると、三人の男性が乗っても平気なのでした。これはテレビ映像での話ですので、トリックがあるかも知れませんが、言葉の暗示力にかかっているとも考えられます。

 商品の宣伝にしても、同様の商品が並んでいるとき、どちらを選ぶかというと、テレビで何度も見た商品を買う場合が多いのではないでしょうか。これは「言葉と映像の暗示は消費者の商品選択の時に有効である」との暗示の力を認めた会社の行動でありましょう。 それと同様に、「人類意識」からの自己暗示に私たちのほとんどがかかっているようです。それにはどうすればよいのでしょうか?その答えは、神想観です。毎日、肉眼を閉じることによって、「五官の世界」を去って、「実相の世界」に超入する必要があると御教示されております。
 
 私たちの周囲には、「人間は病み、罪を犯し、死すべきものである」との、肉体人間観が漂っています。その人間観から超出するためには神想観が一番であります。総裁先生は、常に、神想観を勧めておられます。『日時計日記』でも一日の日課の下に、「神想観」の項目があります。大いに超入してみようではありませんか。また、「すべての悪しき問題は、実相の忘却より生じる」と極言しておられます。

 細菌学の友人の話によりますと、彼は余りにも仕事熱心で家庭を忘れて研究に没頭しておりました。するとある日、何と離婚届に判を押すようにと弁護士が来たのです。ビックリ仰天でした。彼は、妻と結婚した筈なのに、いつの間にかそれを忘却して仕事と結婚してしまっていたのでした。そこでみ教えに触れるのです。彼は自分の父母のみならず、妻の父母に感謝しました。神想観のようにして、朝夕に三十分づつ誦行を行いました。すると、彼は、「妻は仕事をする夫を支えるのは当然だ」という傲慢な考えを持っていたのは大きな間違いだったということに気がつきました。そして、心から妻に懺悔し、愛することが出来るようになったのでした。すると、「心に認めたものは存在に入る」とのみ教えの通り、夫の元に子供と一緒に帰ってきてくれました。

 実相に於いて本来一体である魂の半身との姿を見出したとき、離婚問題は消滅したのでした。従いまして、私たちは、常に神我一体、自他一体、万物一体の実相を心の中に確認するように致しましょう。そして、心の奥底から感謝をするのです。「もはや、自も無く、他も無く、天地ただ御親の中にある」との祈りが、『生命の實相』の中には御教示されております。

中内 英生

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October.29.2011「死もまた教化す」

Img542_2 October.29.2011「死もまた教化す」
今日の詩::闇なれど 大輪に咲く 百合の花

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 今日(平成23年12月11日(日))の地方講師研修会において、「死もまた教化す」とはどういう意味であるのか、という質問が出た。その意味は現代的な意味を問うていたのだったが、それとは別に、谷口雅春大聖師がご生前、「如来寿量品の自我げ」にある文章をお読みになっておられたのを思い出したのだった。何とも言えない荘厳な思いだった。
私が手にしているのは、昭和42年10月20日発行の「聖光録」なので、読者の皆様はお持ちでないと思われるので御紹介します。仏典には出ている文章なので、そこから読んでいただいても問題ないと思われます。私の能力で漢字変換できない文字があるので、ご辛抱いただきたいと思います。

  斯くの如く、我成仏してよりこの方、はなはだおおいに久遠なり。寿命無量あそうぎ  劫なり。…
 ①我時に衆生に語る、常にここに有りて滅せず、
 ②方便力をもっての故に、滅不滅有りと現ず。
 ③余国に衆生の信楽する者あらば、
 ④我また彼の中に於いて、為に無上の法を説く。
 ⑤汝らこれを聞かずしてただ我滅度すと思えり。
 ⑥我もろもろの衆生を観るに、苦界に没在せり。
 ⑦故に為に身を減ぜずして、それをして渇仰せしむ
 ⑧その心の恋慕するに因りて、すなわち出でて為に法を説く
 ⑨神通力斯くの如し、あそうぎ劫に於いて
 ⑩常にりょうじゅ山及び余の諸々の住所にあり
 ⑪衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、
 ⑫我が此の土は安穏にして天人常に充満せり
 ⑬御林諸々の堂閣、種々の宝もて充満せり
 ⑭宝樹華果多くして、衆生の愉楽する所なり
 ⑮諸天、天鼓をうちて、常に諸々の伎楽を作し
 ⑯マンダラゲを雨降らして。仏及び大衆に散ず
 ⑰我が浄土は破れざるに、しかも衆は焼け尽きて
 ⑱憂怖諸々の苦悩、斯くの如き悉く充満せりと見る。

  ⑪から⑱までは実相世界と現象世界の区別をハッキリと峻別している文章であり、「万教帰一の歌」にも表現されています。
 そして③から⑤の文章を読んでおられた大聖師のお声が今も耳に響いてくるのでした。その時、東京タワーにはいつでも行こうと思えば行くことができる。原宿で説かれる真理もいつでも聞けると思うとなかなか聞きに行こうとは思わない、とお話になられたと記憶している。それは東京オリンピックが終わり、経済成長の真っ最中でありました。そしてそれが幸福の証であると日本人が思い始めていた時でした。そして、東日本大震災と福島原発事故に至るまで延々とその傾向は続いていたのでした。
 そして、今、宇宙大生命がお選びになった大聖師はあらたに二代目谷口清超大聖師となり、さらに現総裁先生となられて私たちをお導くくださっておられるのです。同世代に生まれ合わせることができた光栄を心から感謝申し上げ、今日も一日、信仰生活を生きて参ろうではありませんか。

 中内 英生

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October.28.2011「実相はどこにあるか?」

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October.28.2011「実相はどこにあるか?」
今日の詩::朝靄に 陽は昇りたり 冬の峰

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 実相世界はどこにあるか、について『詳説神想観』には書かれています。ある時、谷口雅春大聖師が、お孫さんと御一緒に渋谷へ行かれました。先生が「渋谷に着いたよ」、と言われてもお孫さんは、「ここは渋谷じゃないよ。車の中だよ」といって譲らなかったといいます。車の中にいて、そのまま渋谷にいるように、肉体を現しながら、実相世界にいると云う訳です。
  どんな不幸な姿、苦しそうな姿を現しているようでも、そのまま完全円満な実相があるのです。ある禅宗の偉いお坊さんは、「主人公、主人公」と自分に向かって呼びかけ、自分で「はいはい」と答えていたそうです。生長の家では、もっと簡単に、「神の子、神の子」と自分自身に呼びかけて、「はいはい」と答えるのです。
 近年は、日時計日記が非常に使われるようになりまして、この中で、神の創造のうち、最高のものは人間である自分ですので、万物の真象のみならず自分自身を讃嘆することがそれに当たります。島根の白鳩さんで、子供のことが中心だった日時計日記を、自分自身を讃嘆することにしたところ、「今までの自分と違う」と思えるほど、自信が持てるようになったと言っていました。

 日時計日記は、真象を見出して表現することを中心にして、素晴らしい働きがあるようです。これは波長の世界です。良い心をもっていると、良い出来事やよい人と波長が合います。波長は自分から出します。他からの波長で良くなった場合は、他からの波長が消えたときに、無くなる場合があります。人間は神の子でして、「自主」ですので、自分から波長を出すことが大切でありましょう。

 ある話。夜間に車で走っている時に、隣の席に座っている息子が言いました。
息子「お父さん、道路であんなに光っているのは明るい証拠でしょ。自動車の電灯を消しても良いのではないの?」
父「それでは消してみようか?」
そう言って、父親は直線コースに入ったときに車の電灯を消しました。
息子「あっ!何も見えなくなったよ。お父さん、大変だ」
父「あれはね、反射板といって、自動車の電灯の光を反射して光るのだよ。自動車のライトのせいで反射板は光るのだよ」。

 この自動車と同じで、反射板を光らすにはまず、与える事が必要です。自分が主人公となって、愛と感謝を周囲に与えると、周囲が光り輝いて自分の目に映るのです。人間は神の子であり、完全円満であり、永遠不滅であり、しかも自主的存在です。だから、どこからでも伸びることが出来るのです。自分が決めた時が、伸び始める時です。それを決めるのは自分自身です。
 ある仏様がなかなか悟りが開けなかった。どうして悟りが開けなかったのかというと、その仏様が悟らなかっただけなのです。大力量人が、大力量であるにもかかわらず、足を挙げることが出来なかった。どうして、足を挙げることができないかというと、大力量人が足を持ち上げないだけなのです。あくまで人間は自主であるのです。
 その大力量を出す時期は、自分で決めるのです。だから神の子というのです。

中内 英生 

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October.27.2011「祈りで教えられる」

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October.27.2011「祈りで教えられる」
今日の詩::ほの明かき 障子にうつる 寒朝陽

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 潜在意識の奥で、人類は繋がっているということはよく聞きますが、肉眼には見えない世界のことのようです。十年ほど前のことですが、私は一週間ほどある人(Aさん)の魂に光が当たるようになることを祈っていました。その人に真理の光が差し込むことを願ってのことでした。それは、強がっている顔の中で、ちょっとした瞬間に見える限りなく寂しい表情を見て取ったからです。黒い闇の如き何かを私は感じて、その何かが分かれば、その原因の消滅をはかることが出来ると考えたからです。

 潜在意識の譬えに、氷山があります。5パーセントは海上に見えていますが、95パーセントは、見えません。しかし、海流が北から南に流れると、そのように流れるのです。それは、たとえ、風が南から北へ吹いていてもです。こんなたとえ話です。
 もう一つのたとえ話は、島のたとえです。島は海上では繋がっていないように見えます。しかし、実は海底で繋がっているのです。この話は、人類が意識の根底で繋がっていることを意味します。人類だけでなく、動物、さらに鉱物も含めることもできましょう。このことは、私たちが行わせていただいている「四無量心を行ずる神想観」が大いに有効であることを意味します。 

 さきほどの祈りですが、その後私は、一通の手紙を受け取ったのでした。手紙の主は、私がお顔を知らない人でした。おそらく、先方は私を少しは存じておられるのだと思います。その内容を読んで、私は衝撃を受けました。私が知りたかった内容が書かれていたからです。愛のある深き祈りは効かれることを知りました。「実相を観ずる歌」の中に、「神は知恵にしてわれは神の子なれば吾はすべてを知り、すべてのもの吾を知れり」とあります。その内容については、Aさんに聞いても言わず、当然のことながら本人からは絶対に言わない内容でした。

 それから私のその人に対する祈り方が変わりました。実相顕現の祈りを徹底し、「遠隔思念の一形式」の祈りを徹底しました。そうすると、徐々にではありましたが、ホンモノがあらわれてきたのです。そして、Aさんは、御家庭が調和し、周囲と調和し、会社に於いても大いに実力を発揮されて、やがて栄転して行かれたのでした。私はその時、祈りの大切さを教えられました。また、私たちのなすべきことは、裁判官になることではなく、相手の完全円満なる実相を礼拝すること、そして観ることは現れることであると教えられました。謎が解けました。まさにその一通の手紙が糸口でした。

 北海道の人で非常に祈りに徹している経営者(Bさん)がおられました。Bさんと祈りについて語っているときのことでした。「祈るだけではだめで、行動が伴わなければ意味がない、というが、私はそうは思わない。そういう人は、本当に祈ったことが無い人の言う言葉だよ。祈りは動力であり、実際の力があることを私は何度も体験しているんだ。」 私は、Bさんの話を聞いて、冷水をあびべせかけられて、目が醒めたような気がしました。勿論、行動が伴わなければいけないのです。しかし、集中力のある祈りは、さきほどの実相を観ずる歌にありますように、「吾祈れば天地応え、吾動けば宇宙動く」という強烈な祈りになると考えられるのです。

 中内 英生

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October.26.2011「人はなぜ風邪を引くのか?」

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October..26.2011「人はなぜ風邪を引くのか?」
今日の詩::ひんがしの 空にほんのり 朝の色

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 今日は朝から雨でかなり寒い。風も強いだろう。その風に当たったとき、「寒いなあ」と思う。それは温度が低いことを感知したことになる。しかし、人間はその後で、「風邪を引くかも知れない」と思うのです。「その念の働きで風邪を引くという現象を現す」と、『生命の實相』頭註版23巻常楽篇34頁に書かれています。そのあとの御文章が風邪を引きやすい人に取っては必読の内容です。

 冷たい風そのものではなく、「風邪を引くという念の力の方が強くて風邪を引くということになります。寒いと必ず風邪をひくということなにますと、北国の子供たちはみんな風邪を引いていなければならないことになります。しかし、そんなことは無く、却って元気のようです。
 「風邪は引くものではなくて、押すものよ~♪」と楽しそうに言った人がおられました。その方は、生長の家にお触れになって、それまではよく風邪を引いていたのですが、まったく引かなくなったそうです。

 「風邪を引いて会社を休みたいなあ」と思うと必然に風邪を引くことになります。思いが実現するからです。仕事が続いて、「少し休みたいなあ」と思い始めたら、少し休養をとることです。身体が休憩を要求しているのです。それを押して仕事をすると、潜在意識が風邪を引かせることもあり得るでしょう。
 私が子供の頃は、風邪を引くと学校を休めるというので、夜間、わざと布団からはみ出して寝ていても母親がいつのまにか布団をかけていたこととがあります。また、風邪を引くと、大好きなバナナを買ってきてくれるので、風邪はサンタクロースのようなものでした。今では、地球温暖化の要因の一つであると言われていますので、昔ほど食べたいとは思いません。個人的には出されない限り食べることはなく、今では我が家でも購入することはないようです。

 寒い風は皮膚に当たると、逆に皮膚が強くなると信じると皮膚が強くなるというのです。子供のほっぺたを叩いても、叱られて叩かれたと思うとそのショックで泣き出しますが、あやして叩かれたと子供が思うと、害されたのではないと思って却って喜ぶことになります。これも程度ものですが。
 「ゲゲゲの鬼太郎」の漫画を描かれた水木しげる氏は、米子の連隊に居たときに、毎日びんたを食らわされたそうです。そのことをNHKの記者が取材していました。「腹が立ちませんでしたか?」「ぜんぜん!」「どうしてですか?」「だって、ボクは強いから、びんたくらいで参ってしまう人間ではないんです。」この言葉に、私も驚いたことだった。

 キリストの言葉で、「十里の公役を強いられるならば、二十里を行け!。右の頬を叩かれたら、左の頬を出せ」と説かれていますが、それは、赤ん坊に叩かれても決して腹が立たないように、何を要求されても、困らない神の子の強者の自覚であると教えられています。私たちは、このような最強の神の子の境地まで登ることが出来るでしょうか。
 その高みまで達するには、総裁先生から、「毎日怠らず神想観を行うように」との御教示を実践する以外にないのでありましょう。「いまだかつて風邪を引いたことのない」本当に自分を観るのです。そして、日時計日記に明るいことを記載する。これの方法は私の一押しです。
 神想観は実に楽しい「行」です。私は、神想観が大好きでして、祈っていて気がつくといつのまにか一時間になっていることがあります。神想観の世界は現象的には「静」の世界のようですが、「握れば一点となり、開けば無窮となる」の世界であり、「動の極限の世界」であるとも云えるのではないでしょうか。

中内英生

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October.25.2011「木肌の力」

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October.25.2011「木肌の力」
今日の詩::木肌見て 冬こそ思う 桜の美

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 総本山の大祭、第一日目に私は霊宮の大祭を終えて徒歩で降っていた。温故資料館の前からの景色がいつもお気に入りだった。
 フト見ると、桜の木が並んでいる。春ならば桜の花が咲いているのだろうに、と思う。しかし、花は一瞬である。一瞬の美しさだけが桜の花のすべてなのであろうか。文豪梶井基次郎が、桜について語っている。光明思想ではないので書かない。彼は「檸檬」などという有名な作品を残した実に美しい文章を書いた人である。

 その時、私は桜の木肌を超接近で撮影した。木肌が美しいと感じたからだった。それは中に生命力を含んで、自らは誇らず、次の子孫を残す花を咲かすために生きる。この生き方は素晴らしいと感じたからである。
 その木肌を見ていると、その中に花があり、若葉があり、枯れ葉があり、桜の生きる一年、そして今まで歩んできた一生を見ることが出来ると思った。

 何人かが私が木肌を撮している姿を見て、色々と感想を述べていた。
「なんで、木肌なんかを撮しているのかね?」
「芸術家はそんなものを撮すんだよ!」
しかし、わたしは別に芸術家ではない。生命が作り出した木肌を美と感じたからだった。 石見には今井美術館がある。妻と一緒に、二科展を見に行ったことがある。すごい山の中なのに沢山の車が駐車していた。逆に考えると、山の中だから、美術館として良いのかも知れない。上野の森にも沢山の木がある。しかし、建物が主であり、木は従である。私は、この美術館が森と解け合っていることに気がついた。ここだからこそ、人は足を運び、美を求めて、たどり着くのだろう。
  この美術館で鑑賞し終えた時、妻に問うた。「何が良かった?」「木肌を書いた樹木」と。私と同感だった。私は、木肌のたくましさを見ると同時に、木肌の奥にある栄養分の流れを、水の流れを、花の理念を、葉の理念を、光合成をしている働きを、二酸化炭素を吸収して酸素をはき出している姿を、それぞれ心で認める必要があることを感じた。

 それと人生は同様であろう。桜の木は一年間、そこに立っているのである。一瞬の桜の花のみを愛するというのは如何なものであろう。花の後の、旺盛な生命力が溢れる若葉を喩えれば、緑の花である。一年すれば枝が伸びる。背丈も伸びる。それらは何と素晴らしいものである。
 目立つ人も素晴らしい。しかし、現象的に目立たない人々も真心込めて生きている。その人々を信仰者である私たちは、もっと深く神の子として礼拝し、「素晴らしい御存在である」と拝ませていただきたいと思う。それは人のみならず、自然界の一切のものに対してである。

 奈良の時代は、中国から来た梅が一番人気であったという。それがある天皇様が桜を認め、愛することによって、日本人の桜観が変わったようだ。認めの力である。私たちは、それを思うとき、もっともっと自然の素晴らしさを認め、人と自然の大調和の素晴らしさを認めるようにしたいと思う。島根に住んでいる私たちは、周囲が自然に取り囲まれている。それを実践できるのは、島根信徒の使命であるとも思う。

中内英生
 

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